佐野桜(サノザクラ) / Prunus jamasakura cv.Sanozakura
昭和5年、京都の桜の研究家・佐野藤右衛門氏により山桜(ヤマザクラ)の実生約1万本中より選抜され、八重の優雅な花が咲いたので、植物学者・牧野富太郎博士がこの桜を佐野桜(サノザクラ)と命名したそうです。(もうこの時点でドキドキします)
4月の上旬から中旬ごろ、淡い紅色の花を咲かせます。卵状楕円形または長楕円形の葉は、開花とともに展開。”花は開花が進むと白色となる”または”散りぎわには花芯が赤味を帯びる”等の記述がある事がありますが、花弁枚数の変化のほか、様々な形の花弁が見られるとの事。何回か、佐野桜の写真を撮影していますが、その通り。
上の2枚の写真もちょっと雰囲気が違います。それにしても、美しい桜。。。
佐野 籐右衛門氏
佐野 藤右衛門(さの とうえもん)は、庭師の名跡。京都・嵯峨野にある造園業「植藤」の当主が襲名する。藤右衛門は、天保3年(1832年)より代々、仁和寺御室御所の造園を担ってきた。
当代の第16代 佐野藤右衛門(1928年(昭和3年) – )は、日本の造園家、作庭家。祖父である第14代藤右衛門が始めた日本全国のサクラの保存活動を継承し、「桜守」としても知られる。京都府京都市生まれ。京都府立農林学校卒業。造園業「株式会社植藤造園」の会長。桂離宮、修学院離宮の整備を手がける。パリ・ユネスコ本部の日本庭園をイサム・ノグチに協力して造る。1997年(平成9年)、ユネスコからピカソ・メダルを授与された。1999年(平成11年)には、勲五等双光旭日章を受章。2005年(平成17年)には、京都迎賓館の庭園を棟梁として造成。出展:ウィキペディア
「桜守」。佐野 籐右衛門氏はこんな言をおっしゃっています。
桜の保存に熱心になったのは、おじいからですわ。それをおやじが継き、私が継いで3代目。「桜守」はひとが勝手に言いますんや。水上勉さんの「櫻守」から広まったんでしょうな。桜守とは各地でさくらの守りをしている地元の人を指すんで、ただ好きでやっているわしは桜狂い、桜道楽ですわ。
2011年の東日本大震災後、宮城県に見事な”祇園枝垂桜”を寄贈された、貞山運河「桜」植樹会“~復興・そして未来へ~”に、参加された時の佐野 籐右衛門さん。日本の桜に関してとても大切な方ですが、東北に津波を伝える桜を植樹する中でお会いした時、同じ口調で、とても親しみやすい方でした。
2代目が残した記述の中に”京都四大恩人”の話があり、全国の寺社仏閣に紹介状を書いてくれた方や大切な方々の中に、植物学者の牧野富太郎氏の名前が。3代目・4代目親子に植物学の知識を与え親交していたとの事。
日本植物学の父と呼ばれた牧野 富太郎氏
牧野 富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日(文久2年4月24日) – 1957年(昭和32年)1月18日)は、日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。
「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。
出展:ウィキペディア
花を学ぶ時、牧野 富太郎氏は永遠の先生。高知県立牧野植物園は、「いつか行きたい」と思っている場所のひとつです。
もし、このお二人の出会いが無かったら、現在の桜・花たちが美しく咲き誇る日本は違っていたかもしれません。
桜にかかわる日々の中で・・・
過去も現代もそして未来も、人と人との出会いが美しい花や桜を、生み・育て・広め、人々に大切な”命”の深さを教えてくれているような気がしてならないのです。